目覚めるために感じるのか

原因を見つけるよりも、責められたくない、怒られたくないと防御を重ねていた自分が本当はどう思っていたか、どう感じていたかに気づくことがとても大事だと思う。原因はその時の自分の感情を思い出すために必要なだけだ。ここに焦点を当てて時間をかけることを自分に許した方が結果的に早く変化が訪れるように思う。

思考が働きやすいと、原因を見つけてその構造をなんとか変えようとすることに意識を向ける人が多い気がする。確かに理屈を理解できればある程度は安心するだろう。構造の理解は感じることを促すためにしているだけだ。私たちはbody,mind,spiritを持っている。頭の意識で構造を捉えるのには役立つけれど、原因や構造はとても表層の一部分でしかなくて、ハートの部分を感じなければ恐怖と向き合いきれていないのでまた同じことを繰り返す。そのパターンが自分だと思いこむ。どんどん自分のセンターから外れていく。

でも、向き合いたくない自分の恐怖、苦しさに一度でも目を向けて自分が本当に感じていたことを感じればMomoyoさんがおっしゃる形状記憶のように目覚めの経験として体に刻み込まれる。

不思議だけど目覚めたい!と思えば思うなんで目覚めたいか?ということが気になるけど)感じるところに集中できないように思う。目覚めるという結果にフォーカスしてしまって、肝心の感じるところから逸れてしまっている。

感じた結果どうなるかはわからないどうなるかわからないことが怖い。

感じたら目覚めると信じたい。(これも私は責められる、怒られるの前提に似たネガティブ寄りな発想を持っている)

目覚める結果よりまず、その位自分は恐怖を持っているんだなと自覚することが必要だと思う。

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