自分と自分の感情をジャッジし続けていた

私がジャッジが多かった理由はこうだと思っている。
私は村といってもいいくらいの田舎で生まれ育って、近所の人同士、誰がどういう家に住んでいて、どこで働いて、どういう学校に行って。。。などほとんどの人が知っているくらい狭い世界だった。(子どもの私にはそう見えたが、今思うと他の家庭と比べて、私は家族の価値観の影響も大きかったと思う)
価値観や選択肢がとても限られていて、それに反すると自分が下に見られたり、村八分に合うんじゃないかくらいにずっと不安に思っていた。そういう地域的な思い込みも手伝ったと思うが、私の家族もとても制限された価値観や選択肢しか持たなかった。私はそれに反するといじめられたり、生きていけないような不安を感じていた。
その不安を解消するためには、子どもの私には自分が他者が持ってそう(に自分が考える)価値観の中で上に思われるしかなかった。
また、価値観や選択肢が先にあって(これは悪い、良いのジャッジが決まっていた)、感情や気持ちや思いはそれに合わせるものだった。だから、本当はこう感じているのに、この状況は幸せだからこう感じるはずがない等自分の本当の感情を見ることがなかった。自分の感じていることや思い、行動が他者からどう見られるか不安で、下に見られないかばかりずっと考え、それが自分、他者を見る視点になった。
まず他者に自分が下に見られないか自分をジャッジし、他者を下に見てジャッジして自分は上だと勝手に決めて安心して、不安からずっと逃げ続けていた。その視線は自分にも向いていて、自分で自分をジャッジし続けていた。
そもそも持っていた不安を埋めるためのジャッジと、頭で自分はこうだからこう感じるはずない(こう感じるのはおかしいのジャッジ) と 実際感じていることのギャップに気付かず、自分が辛いと感じていても頭が先行して実際の辛い気持ちや苦しさが認められず、自分を責めていることもあった。これは、ジャッジがあるからだと考えて、ジャッジをやめようと思った。