我慢しているのなんて当然すぎた

何を感じてるかわからない、感じたい、だけどよくわからない場合は、まず自分は何かに我慢していないか疑ってみるのは良いと思う。自分は我慢しているはずがないと思っている人は特に。

その時、自分だけだとそれが我慢かはっきりわからない時は(自分の中で今まで我慢と思っていなかったことに疑問を持つのは難しいと思う)他人と話してみて自分との違いを感じたり(他人に意見をもらうのはプロやニュートラルな感覚を持つ人以外はおすすめしない)、本を読んだりしてこれが我慢で、自分はどう感じているのか確認してみる。

仕事とか家族とか大きなカテゴリーもいいけれど、まずやり過ごせるんだけれど、日々心がざわつくようなことから、なんで自分はこうしているんだろうと目を向ける。例えば、家族や友達に言いたいことがあるけど、飲み込んでしまう時がある。どうして言えないんだろう。相手から言われたことが嫌なのに、同意してしまう。自分は我慢してこれをやってるのにあの人はどうしてしなくても許されるんだ。上司の話につまらないと思いながら愛想笑いをしてしまう自分。自分が我慢しないとこの場が収まらない気して率先して我慢している。

見過ごしてしまいそうな些細なことに自分は何を感じているのか、と意識を向けた時、そんなことに取り合っていたら何もできないと怒りが出たり、自分は本当は嫌だけどあの人のために我慢しているんだ、とか、いやこんなことも我慢できない自分がおかしいんだと言い聞かせようとしているとか、これを我慢しているのを相手に伝えるのが怖いなど様々感じることが出てくると思う。

そこから自分はこういう思い込みがあって、これを我慢しているんだ、またこれをやるのが怖くて我慢しているんだとか理由が見えてくることもある。その我慢していた理由、我慢をした時の感情、その記憶の感情に触れるのが怖くって今までずっと我慢していたのだと思う。それが怖ければ怖いほど、そこを感じることから逃げたくなる。

そういうとき、他人に見てもらったり、自分で文字に起こして後で読み返すと逃げられなくなる。我慢をしている感覚から1秒たりとも感じたくない、その感じている時間が怖いんだと思う。

ずっと逃げたかった思いや感情を真正面から感じる時間がとりたくない。どうなるかわからないからやりたくない。やったら逃げられるはずだ。そういう焦りや逃げを持っていると、なかなか感じられない。

不思議だけれど、激辛料理(我慢)を激辛だったと認識して、自分がこんな辛いものを食べていて何を感じていたかに気づいていくとそれに飲み込まれていた思いから自分が離れる。激辛料理を自分で自分に与えていたことがわかって、今までとは違う思いが出てくる。その時点で我慢していたことに対する自分の思いは随分変わっていると思う。

そして、その我慢の下にあった思いにも気づく。我慢の下のいくつかの思いに気づければ、自分の思いも最初に感じていたことと変化してくる。

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