死がみせてくれた自己否定 4/5

その時のメッセージは、先輩は自分のことは気にしなくていい、私には自分の人生を生きて!だった。私はそれでホッとした。(今回のテーマからはずれるが、プラクティショナートレーニングでこの出来事をテーマにしたことで、セッションってやっぱり楽しいなと私自身がセッションを受ける側の楽しさを思い出した。自分をみるって自分一人でしかできないこともあるけれど、こうやって人の力を借りてじゃないとできないこともある。)
それで気に掛かっていることは終わったと思っていた。でも、そうじゃなかった。私は先輩の死を自分の自己否定を見るきっかけにできず、自己否定に浸かっているだけだった。
そもそも持っていた自己否定が死に対する恐怖に飲み込まれて、それで体調を崩す位不安定だった。それを土台に、結婚していないダメな自分が生き残って、結婚が決まってる幸せな人が亡くなっていいんだろうか、という自己否定、そこから仕事ができない自分という自己否定、恋愛がうまくいかない自分、、、とどんどん積み重なり、今の自分を認めたり受け止める姿勢を作るよりも、否定の積み重なりを感じるスピードの方が断然早かった。
今思うのは、悲しいけれど、先輩の死は、私と関係ない部分で起こるべくして起こった部分もあるのだろう。
ただ、それは当時の私にとっては自己否定を強烈に見せる出来事であっただけだ。今回、その自己否定を改めて感じて、客観的に当時の状況を振り返ってみた。
・仕事は、その当時全くできていない訳ではなかった。むしろ異動前はその部署での仕事量は上位だったように思う。
ただ、私が自分を否定しているから出来事が全てそう見えた。異動の内示があったときも、上司からこれは会社の都合だし、うちの部署はひとが足りているから送り出せる。あなたならできるだろうというように言われた記憶がある。(私の能力がどうこうと言われていない)でも、その時の私はその言葉通り受け取れない位自分を否定していた。
自分を責めていたのは自分だけだった。